「メシカ」の誇り

メソアメリカ文化圏のメキシコは、古代から
数々の文明が興り、栄えてきました。
巨大帝国アステカはスペイン軍に滅ぼされ、
その後の植民地時代に混血は進みましたが
いまでも古代アステカ・マヤ族の誇り、
伝統は生き続けています。

オルメカ

 メキシコ〜中米地域のメソアメリカの母なる文明とされるのが、メキシコ湾岸のオルメカ文明です。この文明は紀元前1200年ごろから始まり、400年ごろにはラ・ベンタを中心として栄えました。特徴的な遺産は、巨石で作られた頭部像です。高さ2m、重さ20トンもあるような頭部像は現在までに16個見つかっています。またその容貌が現在のこの地方の人々とは異なり、分厚い唇、低くて平たい鼻などアフリカ系黒人のような特徴ある顔である事も、大きな謎となっています。

テオティワカン

 メキシコシティの北約50kmにあるテオティワカンは紀元前2世紀頃に建造された都市国家だと言われています。紀元4〜7世紀の繁栄期には20万以上の人口を要していたとも言われています。しかしその滅亡は突然であり、テオティワカン人たちがどこに消えたのか、いまだ多くの謎に包まれています。

 この遺跡のメインは、太陽と月の2つのピラミッド。太陽のピラミッドは高さ65m、一辺が225m、世界でも3番目の大きさです。月のピラミッドは高さ46mですが、少し高台に建てられているので頂上の高さは太陽のピラミッドとほぼ同じです。

 ピラミッドの用途は神殿だと考えられており、重要な宗教行事が広場で執り行われていたと想像されます。神官たちは高度な数学、天文学の知識を操り、宗教祭事やピラミッド建造の指揮をとっていました。
  後にこの地を支配したアステカ人たちは放置されていたテオティワカンを訪れ、これこそ神々が建てた 都市と信じ、「太陽と月の神話」の舞台としました。

アステカ

 14世紀半ば、現在のメキシコシティの位置に「テノチティトラン」の都を築いたのが、北方からやって来た 戦闘民族、アステカ族です。アステカは「メシカ(MEXICA)」とも呼ばれ、現在のメキシコの国名の由来となっています。

 テノチティトランは巨大な湖の上に建設された壮麗な都でした。彼らは戦いと太陽の神、ウィツィルポチトリを信仰し、人間の心臓を捧げる生け贄の儀式を欠かしませんでした。生け贄にする捕虜を得るために常に戦いを続けていたとも言えます。生け贄をしなければ太陽は昇らず、天地異変が起きると信じられていたのです。しかしこの信仰が、巨大帝国アステカがスペイン軍にたやすく滅ぼされてしまった原因ともなりました。

 アステカには、ウィツィルポチトリの信仰の一方で、生け贄の儀式を否定したため追放された神ケツァル コアトルの伝説がありました。ケツァルコアトルは、アステカ歴「一の葦の年」に帰り再び支配者になるという予言を残したとされていました。アステカを滅ぼしたスペイン人コルテスがやって来た1519年はまさにこの「一の葦の年」と一致していたのです。
 時の王モクテスマ2世はこの伝説を信じ恐れ、抵抗せずに捕えられました。また、アステカに支配されて いた多くの民族は、生け贄の犠牲への反発で、スペイン軍に味方しました。
  アステカ帝国最後の王クァウテモックは一時はスペイン軍を撤退させましたが、結局1521年、テノチティ トランは陥落しました。

マヤ

 メキシコ南部のユカタン半島から、現在のグァテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル西部までの地域に繁栄したのがマヤ文明で、古くは紀元前1000年くらいから始まり、紀元7〜9世紀頃に最も繁栄を迎えました。
  マヤの文明域は広いのですが全域を支配するような帝国は現れず、小国が分立する文明でした。
ユカタン半島では、南部のパレンケ、ボナンパックや北部のウシュマル、チチェン・イツァ、トゥルムなどが あります。

 チチェン・イツァは北部トルテカ族の影響も色濃く見られ、人身御供の思想もトルテカから持ちこまれたものでした。
  農耕民族のマヤ族には天文学と暦の知識は大変重要であり、マヤ暦の制度は現在のグレゴリオ暦 よりも優れていると言われます。また多神崇拝のマヤ宗教で最も重要な神は雨の神チャックでした。その姿はマヤ神殿の壁面などに多く表れています。

 16世紀のスペイン軍侵略の際、アステカより先に攻撃を受けたのはマヤでしたが、彼らは粘り強く抵抗 を続け、独立を保っていました。完全に屈服するまでには約180年を要しました。